二児の父の育休日記

人生二度目の育休はじめました。

息子誕生までの記憶①―激動の記録編

▲マスクにガウンの立ち会い出産。入院期間中、コロナがなければ…と何度思ったことか

1回目の育休を振り返る記事の続きを書かないと…と思いつつ、いろいろあった息子妊娠中の出来事も書き残したいとも思い。
時系列は前後しますが、記憶に新しい(かつ、どんどん忘れていく)、息子が生まれてくるまでの1年弱のことを記事にしてみます。
書いていたら長くなったので2回シリーズです。かなり長文ですが、興味のある方は以下よりよろしければ。

つわり、切迫入院、点滴、陣痛不発…いろいろあった妊娠期間

はじめに、いろいろあった息子の妊娠中の経過をまとめてみる。

2021年
8月
・中旬に検査薬にて妊娠判明
・1度目の受診では妊娠確定診断出ず、そうこうしているうちにつわり開始
・月末の受診時に妊娠確定(心拍確認)→尿検査でケトン+++++のためそのまま入院(5日間)


9月
・退院後初回の検診でケトン+。主治医に入院勧められるも、点滴が嫌な妻は固辞
・つわり継続で妻が出勤不能、診断書→病休有休等を使って自宅療養
・つわりのしんどさでイライラの閾値が低い妻。娘のちょっとした言動に厳しく叱るが、無下に否定もできず、いたたまれない気持ちになる(この頃、娘は妻のいないところで「お母さんキライ」とよく言っていました)


10月
・つわりが徐々に落ち着く(とはいえ物によっては食べられず吐く)
・職場復帰を目指し、中旬から少しずつ活動開始(買い物等の外出)


11月
・11/1(職場復帰予定当日朝)に受けた検診で切迫流産の診断(子宮頸管長35mm)
→内服開始(ウテメリン
→次の検診まで自宅安静指示のため、職場復帰できず
・妻は食事風呂トイレ以外は布団で寝たきりの生活に
・11/15の検診で産休開始までの休職の指示


12月
・その後も頸管長は縮み続け、上旬の検診で増薬
→様子を見て状況変わらなければ短期間の入院(数日入院→改善したら退院、を繰り返す)を勧められる。
・2週間後の検診で頸管長が32mmから26mmまで縮み、12/20入院
→点滴治療開始(リトドリン)、ペッサリー(子宮口を縛る器具)を装着
・しばらく様子を見ることになっていたが、頸管長が縮み続けるため、12/23にNICUのある総合病院へ母体搬送される。(主治医からは36w0d以降であれば再受入できると説明があり、それを目標にすることに)
・点滴が嫌い過ぎる妻が点滴差し替えの際に過呼吸を起こす


2022年
1月
・僕も病院に呼ばれ、病状説明と早産児が産まれた場合の説明を受ける(週数と生存率の関係とかどんな障害が残るかとか)
→23週での入院だったが、目標は28w、32w、34wと言われる(重篤な合併症や障害残存リスクが減る時期らしい)。順調にいけば36w0dで退院と。
→これが入院後唯一妻と会えた機会。コロナで仕方ないですが、両病院とも面会禁止でした。
・点滴差し替えのストレス軽減のため、PICC(上腕から太い静脈にカテーテルを入れる。点滴が漏れて差し替える必要性が低くなる処置)を装着
・そんなPICCが2週間で詰まる。1日だけ点滴で過ごすも、差し替えの際に過呼吸・震える・涙が止まらない等妻のメンタルは限界に→翌日PICC入れ直し(その後はトラブルなく退院まで継続)
・PICC抜去と点滴への不安が高まり過ぎた妻を見て、主治医から抗不安薬の服用を提案がある


2月
・点滴+安静を継続、状態は大きく変わらず(リトドリンの副作用の中でも、妻は頭痛をよく訴えていました)
・降圧剤(ニフェジピン)の内服が開始(切迫早産には保険適用外だが、効果のある薬らしい)
・息子は小柄ながら順調に成長している


3月
・点滴への不安は依然続き、出産時に必要な点滴への不安が高いため、2人で悩んだ末に院内の心療内科を受診
抗うつ薬(レクサプロ)の内服を開始。それとは別に、出産時(点滴のルートを取る前に飲む)の頓服が処方される
→副作用で眠気が強く、妻にLINEしても半日既読にならないのはザラ。むしろ鬱になったのでは?と思うほど。副作用は服用開始後1週間程度で落ち着く
・胎児の推定体重が足りず(2300g以上必要)、もともと出産を予定していた産院に退院と同時に戻ることを断られる。母体搬送時と話が違う、と妻の心が折れる
・その後も出産の兆候なく、36w0dの朝に点滴を全量終了→翌日に退院(3/17、入院期間88日)
→2300gを超えた時点で受け入れ可とは言われていたが、もともと出産を予定していた産院ではなく、入院していた総合病院で産むことを決断
・3/28夜中に陣痛疑い→妻と娘を連れて病院へ。そのまま入院になるも痛みと張りが遠のき、翌朝退院。
→車で40分(娘連れならもっと大変)の総合病院に向かうしんどさを実感し、家の近くの産院へ戻ることに。この時点では産院も快く受け入れてくれ、退院した足で受診する。
・3/29夜に陣痛疑い→子宮口が開いておりそのまま入院するが、またも不発。翌朝退院。
・総合病院で測ったときよりも息子の体重が軽く出たため、「在胎期間を延ばしたいから無理に歩いたりしないように」との指示。まだ動いちゃだめなのか…と妻が落ちこむ


4月
・4/5に産院へ戻ったあと2度目の検診。変わらず子宮口が開いており、今日にでも産まれてもおかしくないと言われる
・4/6夕方に陣痛疑い→一度受診するも、「ご飯食べといで」と帰される
・食後に陣痛間隔が10分に。そのまま再度受診し、妻は入院へ。僕(立ち会い予定)は駐車場で待機させられる。
・30分ほどして、思いの外早いかも?と僕呼ばれる。コロナの検査等しているうちに子宮口全開・破水。
・立ち会い始めて40分、娘(初産なのに出産時間8時間)を凌ぐ超速度で息子誕生(39w0d)。

結局、妻はつわりで休み始めてから一度も仕事に行けず、自宅安静を告げられてから退院まで陽の光を浴びない生活。
入院期間中、妻はずっと点滴の不安を抱え続けていました。もともと注射が病的に嫌いな人ではあったのですが、度重なる差し替えの末についに過呼吸を起こしたと聞き、僕の知っている妻ではなくなったような感覚になりました。
本当に妻のメンタルはボロボロで、こちらもどうすることもできず、特に入院中はそばにいることも電話すらできなかったので、辛かったです。

また、ここに書いた以外にも鉄剤や胃薬も飲んでいたので、妊娠中にこんなに服薬していいの?胎児への影響は?という不安は産後の今もあり。
そして、あれだけの期間産まれてこないように押さえていたのに、結局予定日近くまで産まれてこないことに、退院後も気持ちのやり場が難しかった。
結局あの入院は何だったんだろうね、と、今でも話しています。

ワンオペ、不眠、コロナ…そのとき僕は、

▲この期間に印象深い出来事が多すぎて写真選べなかった…そして選ばれた娘の誕生日ご飯、初めての本格的なキャラ制作(トロピカルージュプリキュアのくるるん)

上記は妻と息子目線でのまとめ。切迫入院レポ的なやつでよく見る感じの仕上がりですね。
では、そのとき僕はどのように過ごしていたか?をまとめてみる。
ぜひ上記と照らし合わせながらご覧ください。

2021年
8月
・娘のときもつわりがひどかったため覚悟はしていたが、やっぱり吐きまくり&吐きたくないから飲まない食べない妻のフォローに奔走
・妻は米、添加物多めの食品、大豆製品等がことごとくダメになるので、それらを避けて食べられるものを提案→買いに走る・作る→用意して仕事に行く、という生活
・妻が入院して少しホッとする


・職場に迷惑をかけることが確実なため、直属の上司へ妊娠報告。育休の意向も伝える。
→安定期はまだまだなので周囲には妊娠について伝えないようお願いする。上司は僕が抜けたあとの体制を気にして、周囲に伝えたそうな雰囲気。育休期間についても聞かれましたが、妻と話し合えていないため、名言せず。(この時点で1年取るつもりでいましたが)


9月
・退院してきた妻のフォローを継続。娘のとき(つわりで2回入院、出産後まで米を食べられず)よりつわりは軽い。とはいえ、エチケット袋代わりにしていたナイロン袋は100枚消費される
・ただ、娘の世話+家事のワンオペで徐々に疲弊。:朝は通常の家事+妻の昼食間食の用意をして出発。夕方帰宅後はバタバタと家事と娘の世話を終え、娘が寝た後に翌日の食事準備などをする流れだったと記憶、忘れましたが…
・辛そうな妻に「受診して点滴だけでもしてもらえば?」と言いすぎて、「私なんていないほうがいい、入院してくればいいんでしょ」と泣いて怒られる。


10月
・妻も落ち着いてきたので、休日は家族で一緒に買い物に行ったりして過ごすことも
・軽い家事は日中家にいる妻に頼んでみる(食洗機など)


・仕事が立て込み、もともと溜まっていた仕事が定時退社も相まって終わらず、回らなくなる。残業せざるを得ない日も出てきて、20時まで保育園を延長することも(預かってくれるだけありがたいですが、20時までだと延長料金2000円…)
・職場に育休希望を1年と伝える。妻の状態も踏まえて周囲にはまだ伝えたくないが、関係部署の責任者には伝えてもらって構わないと伝える
→ほどなくして、部署内の職員全員が集まる会議で上司が相談なく僕の育休について話し始める。その後謝られるも、上司への不信感が高まる。


11月
・妻の自宅安静の指示に愕然とする。が、まだそこまでの切迫感はなかったこの頃。
・日中・夜間は妻に寝室で過ごしてもらっていたが、それでも頸管長が縮むため、階段昇降を減らす意味でリビングに布団を敷いて妻が過ごせるように。


・ストレスからなのか、体調を崩し、原因不明の発熱(3日間)
・妻とも相談し、仕事を少しセーブする方向で考えることに。
→発熱から復帰後、上司に1ヶ月くらい休みたいと相談。「わかった、大変だろうからそうできるように調整する」と言われる。
→その日の夕方、「体制上長期休みは認められない。検討するからとりあえず何日か有休で休んで」と手のひらを返され、僕のメンタル崩壊。有休中もろくに眠れない日々を送る。
※長期休暇に関しての職場の判断は至極真っ当だと思いますが、一度「休ませてあげる」と言われて肩の荷を下ろした直後に言われた内容だったため、精神的にとてもキツかった。


12月
・職場との話し合いを継続。その間、僕が耐えきれず上司たちに泣きながらキレる等いろいろやらかす。
→職場からは、①有休+欠勤で週3程度の勤務に減らす、②有休+欠勤で毎日1-2時間程度早退する、③まとまって休職するなら僕の診断書等を用意して申請する、と提案される。妻とも相談し、「1月から①でやってみて、難しそうなら③を検討する」という方向性で、職場にも伝える。


・その直後に妻の入院が決定。主治医に説明を受けた際、「妻本人には伝えていないが、週数からリスクが高いから数日様子を見て母体搬送も検討している。まぁ本人にはストレスかからないように話しといてください」と言われる。そのまま妻に伝え、覚悟を決める。
・予想より早く転院が決定。病院が変わり必要な荷物も変わったため、転院当日は買い物に走り回る。一番大変だったのはWi-Fiで、新規で楽天モバイルの0円ルーターを契約して病院に届ける。
→僕のメンタルが2度目の崩壊。妻の病院からの帰り道の車内では、必ずわけもなく涙が流れてくる等、いよいよかな…と思い始める。


・妻のいないクリスマス。スポンジ台を買ってしまっていたので、娘とケーキを作り、頑張ってラッピングしたプレゼント(メルちゃん)を娘の枕元に忍ばせる。
・職場のみんなに1月からの勤務体制を伝え、育休も見越した引き継ぎを開始。いろいろあった直属の上司が3月末で退職すると知らされる。
・いろいろ限界だったので、妻実家に連絡して年末年始に何度か娘を預かってもらう。コロナの不安もあり、その後は直接頼らず。


1月
・妻のいないお正月。食材を買ってしまっていたのでおせちを作り、娘と頑張って食べる。妻にもおせちを持っていく
・病院にて病状説明と新生児科の先生の説明を受ける。このときのみ妻と同席。ショック受ける親御さんもいる、と事前に助産師さんからは聞いていたが、案外冷静に内容を受け止める。
→妻が別れ際に泣き始める。その場は何とか堪えるも、帰りの車で嗚咽する。


・妻のいない娘の誕生日。妻にもケーキを買って持っていき、リモートで誕生会をする(この時期たまたま妻が個室だったため、テレビ電話ができました)
・誕生会の夜以降、寝る前に娘が「寂しい」と泣くようになる。時には僕も耐えきれず一緒に泣く。


・正月明けから週3勤務を開始。休みの日は娘を保育園に送ってから家事や食事の作り置きをして、終わり次第布団に倒れ込む生活に。
・娘が毎朝のように「お父さんと一緒がいい」と保育園に行き渋るようになる。
→僕が休みの日は娘を休ませるべきか?と対応に迷い、担任の先生に立ち話で相談すると、短時間の面談をしてくれる。娘は園ではそれほど変化はないが、保育士さんにべったりすることが増えたらしい。
→クセにならないよう、とりあえず行き渋っても登園させ、どうしてもなら休ませる、という結論に。家の事情も詳しく伝え、様子見や声かけ等、これまで以上に対応してもらえるように。(腹痛など身体症状の訴えもあったため、見守り・報告してもらえたのは助かりました)
→何より、娘のことを誰かに相談できたという事実に僕自身が救われる。


2月
・週3勤務になり1ヶ月、生活にも慣れて家事も滞らなくなる。少しずつ精神状態も改善
→これぐらいの働き方がいいな、と思い、育休復帰後に非常勤の仕事に転職することを考え始め、求人情報を眺める
・やることがないと不安でしんどいので、休みのたびに妻の病院に差し入れしようとするも、まとめてでいいと断られる(コロナの影響で病院からお茶の提供がなく、定期的に水のペットボトルを運んでいました)


・保育園でコロナの陽性者が発生。娘は濃厚接触者ではないとの判定に安堵する。
→その日の夕方、娘が発熱(37.8℃)。ひとまず保育園に連絡し、翌朝にかかりつけの小児科を受診。抗原検査でコロナ陽性が判明。頭が真っ白になる
→僕も喉が痛いので、夜にかかりつけの内科を受診。PCR検査を受けるも、結果は陰性。主治医ですら「絶対陽性だと思ったのに…まぁ偽陰性もありますし…」と言っていた
→僕が濃厚接触者扱いなので、娘の隔離期間が終了してから7日後まで休むよう、職場から指示される。
・娘は1日で解熱。その他の症状や咳すらなく、陽性判明から2日後には通常モード。
・僕がうつって倒れたらどうしよう…という不安にさいなまれる。いざというときのために妻実家に協力を頼んでおく
→結果的には頼らずに済みました。義両親はともに持病があるため、普段から接触していなくて本当によかった


3月
・なってしまったものは仕方ないと開き直り、娘とべったりな隔離期間を過ごす。ひたすらに2人でぬりえに取り組む。
→僕との分離不安が強かった娘は、この期間で二人でずっと一緒にいたことで精神的にかなり安定。娘はもともとインドア派だったので、そこまで隔離生活は苦にしていませんでしたが、さすがに後半は「ひまー!」と叫んでいました
・人生初のネットスーパーを利用する。隔離期間中1日だけガストの宅配を頼み、娘と豪遊する
・無事に隔離終了。
→医療関係の方をはじめとして皆さん優しい対応をしてくださり、言葉や対応一つ一つに本当に救われました。


・職場と再度引き継ぎや今後について相談。主に新しい上司と話し、以前の上司との違いを実感する
→違いの詳細はまた別途。もともとはキリよく3/31まで勤務・4/1〜休み(有休→産まれ次第育休)の予定でしたが、妻退院後にすぐ出産になる可能性もあることを伝え、休みを3/23〜に早めることを了承してもらう


・妻が抗うつ薬の服用を始めた頃から音信不通になり(ずっと寝ていたらしくLINEの既読すらつかない)、安易に心療内科を勧めてしまった、と落ち込む
・妻退院の前日(36w0d、点滴をやめる予定の日)、出産の可能性があったため予定をあけておくと妻と約束していたのに、仕事の予定を入れてしまい、僕の意識の低さについて妻から長文メールで叱られる
→最後の最後で何やってるんだろう…と心底落ち込んだエピソード。と同時に、理路整然とした長文メールを送ってきた妻を見て、抗うつ薬の副作用が治まったのだろうと実感する


・妻退院。その足で行きたがっていたカフェで豪遊し、欲しがっていた指輪をノリで購入。そのまま娘を迎えに行き、娘が妻と3人で行きたがっていたスシローに行く
→妻を一目見たら泣くだろうな…と思っていましたが、退院の用意で疲れ果て、筋力低下でふらふらと近づいてくる妻を見て、力が抜けて笑ってしまいました
→せっかくの外食がスシローという娘の残念さ…。妻をみて娘がどうなるかと思っていましたが、しばらくモジモジしたあとはずっとべったり
→PICC固定のために貼っていたテープかぶれがひどく、妻の左上腕はかなりグロい見た目に変貌。入院の壮絶さを垣間見る
・妻が作っていた「退院したらやりたいことリスト」を1つずつこなしていく(だいたいが味の濃いものを食べる、という内容で笑える)


・一度目の陣痛疑い。夜中0時に娘を起こし、車で病院へ向かう。
→帰される可能性もあったため車で1時間ほど待機し、入院が決まった時点で帰宅。家に帰ると3時、娘とともに眠るが、寝た気がしない
→朝起きると、妻から「寝たら痛みが遠のいた」とLINEが来ており、困惑する。その後は娘を保育園に預けて妻を迎えに行き、もともとの産院を受診する、という怒涛のスケジュール
→この日の入院費は保険適用できず、自費入院になるため、入院費の高さと今後繰り返すことへの不安に苛まれる


・その夜にまさかの二度目の陣痛疑い。今度は21時でよかった…と、産院へ妻を送り届ける
→もともとの産院は立ち会い可能なため、立ち会いのための深夜の呼び出しに備え、義父に泊まりにきてもらう。じいじ大好きな娘は大喜び
→妻からの呼び出しを待つも、鳴らない電話。LINEするも返ってこず、朝方に「寝たら痛みが遠のいた」と返ってきており、困惑する
→義父に心底お礼を言い、次回があれば来てもらう約束を取りつける


4月
・三度目の陣痛疑い。今度は夕方のため、娘を迎えにいってから妻を産院へ送る
→入院だろうと思って帰宅するも、まさかの帰って食事してこいとの指示。産院へ戻って妻を迎え、自宅へ来てくれた義父と4人で夕食
→夕食後、風呂に入りかけた妻が痛みに苦しみ始め、陣痛間隔は10分を切っている。産院へ電話し、娘は義父にまかせて妻と2人で病院へ。


助産師さんに「いつになるか分からないから近くで時間をつぶしててください」と言われ、コンビニへ行こうとした直後に呼び出される。
→体温測定や抗原検査もそこそこに、「早く入って」と陣痛室へ促される。ガウンを渡されるも、着方をろくに説明してもらえずにずっと背中がぷらんぷらんしている
→陣痛室に入るとすでに子宮口全開、破水もしたらしい。妻が点滴のルートは僕が来てから取ってほしいと希望したため、僕が待ち望まれていた様子(転院による検査漏れで抗生剤の点滴が必要になり、すぐにルートを取る必要があるとのこと)
→頓服の抗うつ薬は飲まないままに、とりあえず僕が妻の手を握り、ルート確保開始。しかし素人目にも全く取れず、助産師さん3人目、5箇所目にして無事ルート確保。妻は陣痛でそれどころではない様子
→ルート確保もそこそこに、感覚として10分くらいで「もう頭見えてきたよ、頑張って!」のところまで出産が進む。先生がやってきて有無を言わさずサラッと会陰切開、その直後に無事出産。
→カンガルーケア。娘のときは死んだ目をして無反応だった妻だが、息子を乗せられた瞬間に「かわいい…」とつぶやいていて、この人も母になったな、と実感する
→妻が「やっと終わった」と助産師さんに話しているのを聞き、その言葉の重さを噛みしめる

…書いていると思いが溢れてしまいました。

本当にいろいろあった1年弱。
感情を動かす隙のないほど怒涛の日々の中で、眼の前のことをこなしていくしかなく、気がつけば自分自身がすり減ってしまいました。
振り返ると、自分一人で無理して抱えこんでつぶれていっただけのような気がしますが、「自分しかいない、絶対自分が倒れたらいけない」という責任感と重圧は、人生で初めて感じたものでした。
だからこそ、いろんな人を頼ればいいし、頼らなきゃやっていけないのですが、それが難しいのが僕という人間でもあり。

書きたいことはまだまだあります

長文、最後までご覧いただきありがとうございました。
未整理、乱筆失礼しました。とりあえずアップしますが、後ほど読み直して修正するかもしれません…。

あったことを振り返って文字にしただけでこんなことになったので、そんな日々を過ごして思うこと、考えたことなどは次回の記事にて。
今のところ書こうと思っている内容は、

  • 切迫流産・早産の入院治療に思うこと
  • 仕事と家庭の両立、職場に配慮を求めるということ
  • 妊娠期間を経て、あってよかった/あればよかったと感じたこと

など。(予告ではなく自分のための覚書…)

いつになるか分かりませんが、後編に続きます〜。



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